1993年5月。 それまでの焙煎室が手狭になり、新たに焙煎工場を作った。5坪から60坪へ。名付けて「北の珈琲工房」。知り合いの印刷工場を譲り受け、焙煎機10キロ、5キロ、3キロを設置した。投資額に見合うだけの販売額まで持っていかなければ頓挫する。後には引けない。経済のスパイラルに身も心もはまり込んでフラフラの毎日が続いた。ただ、そんな中でも前年に成し遂げた記念碑建立が大きな支えになっていた。人前で、ひとつコーヒーを説くときでも「一杯のありがたさ」への精神性や、目の前に置かれるコーヒーは決して金銭だけで測れない尊さを含み、淹れ手と飲み手の品格が問われるものだと力説して津軽藩兵になぞらえると理解が早く進み共感が広がった。 そんな折、伊藤博氏から突然の電話が入った。日本にコーヒーの学会をつくるから加われないか、との事だった。学術なんて無縁だったのが尊敬する人の声はよく耳に響いた。誘われるままに何回かの設立準備会から参加して12月4日の設立総会には常任理事の役職を与えられ末席を汚すことになってしまった。
1996年8月8日。 二冊目となる著書「はい、コーヒーですよ」を出版。一冊目の「珈琲遊学」からちょうど10年が経ち区切りがいいものもあったが、今回の出版は創業から20年を迎えてそれにふさわしく多くの珈琲愛好者の珈琲賛歌の声も綴ってみたいと思い、エッセイとショートストーリーの募集とし、審査には伊藤博氏をお願いした。250通ほどの応募があった。人々のコーヒーへの思い入れは並大抵でないものとこの時知った。優秀作品とともに雑誌に1年間連載していた拙著「津軽珈琲物語」を加えていなほ書房より発売とした。
1999年6月。 創業当時からのコーヒー講座。いまはカルチャーセンターと提携しながら、2ヶ所で開講している。そのOBも随分と増えた。最近の傾向は1年間のカリキュラムを過ごしても更に楽しみながら継続しているのが特徴。コーヒーへの情熱が冷めやらないのだろう。教えている者の責任としてその熱をどこかに昇華させなければならない。それにはコーヒーを題材に自他を試す方法がある。あおもりコーヒーライセンス委員会の誕生である。設立総会で「あおもりコーヒーライセンス委員会はいわばメダカの学校。誰が先生で誰が生徒かは大した問題ではない。お互いにコーヒーを学ぶことによって自分にも人にも、そして地域社会にも貢献できることがあるのだろう。その目的のために私達が作った資格試験に私達が挑もう。」と呼びかけた。
2009年2月現在。 昨年に増改築した成田専蔵珈琲店の2階の窓から遠くの山脈を眺めている。冬とは思えない朝の陽光がとても眩しい。コーヒー屋を始めた頃、安物の黒いカバンにドリップセットやコーヒー豆を入れて戸口のチャイムを鳴らしていたあの頃、こんなに売れない物を何で持ち歩くのだろうと疑心暗鬼に陥っていた時のカンフル剤は皮肉なことにコーヒーだった。人がなんと言おうとコーヒーは美味しい。それを自分の都合で売ろうとしていた。その時のあの山脈はいまもなにも変わっていないはず。ただそこにあり幾千年も春夏秋冬、季節の彩りだけを変えながら鎮座している。尊大なはかりごとはやめよう。見えもしないものにわななくのもやめよう。この街に吹く風と流れる水と咲く花を愛でながら、そこに暮らす人々が「これがいい」と言うコーヒーを作り続けよう。
宗谷岬宗谷公園・津軽藩兵陣屋跡。そこにコーヒー豆を象った「宗谷岬殉難津軽藩兵詰合記念碑」の記念碑が建立された。事が重大なだけにいま少し歴史的背景などを記しておきたい。 18世紀末、ロシア船の南下など日本を巡る国際情勢は大きく変化した。幕府はこれに対応するため、寒さに慣れた東北各藩から警備要員を蝦夷地に派遣し始めた。記録や郷土史家の調査によると、津軽藩からは1793年(寛政5年)かた1822年(文政5年9までに8694人が派遣された。うち295人が死亡した。中でも1807年の派遣先は極寒の地・宗谷岬だった。津軽藩の算術指南役・山崎半蔵が書いた「半蔵日記」には同年、藩兵の「安房ノ和助」が死亡したとあり、初の浮腫病犠牲者であったと推測される(この項、日本経済新聞2007年3月1日掲載の記事・津軽藩兵を救った珈琲から抜粋)。 9月16日は「安房ノ和助」の命日。記念碑建立計画発表から足かけ3年を経て、遂にこの日が来たのだ。建立運動に関わった仲間とともに記念碑の前で「津軽纏い振り」を奉納し、コーヒーを献茶した。コーヒーを飲めずに逝った藩兵達。庶民としておそらく初めてコーヒーを飲んだ津軽の先人達。歴史的にも精神的にも決して忘れてはならない「津軽珈琲事始め」の刻印がこれで完成した。これからはこの記念碑を守りながら、先人達の偉業に恥じないコーヒー啓蒙活動に専念しようと誓った。
1997年1月。 一杯のコーヒーを飲むのにどれほどの事があるのだろう。と、津軽藩兵への想いも込めて始めた珈琲茶会が年々、盛んになっていた。そこに参加していた和菓子屋さんのご主人が「立礼式珈琲茶会」の創作を考えて欲しいと言ってきた。難しいことではなかった。創作和菓子で市民を虜にしているその店には既に茶室もあれば、喫茶室もある。あとはコーヒーと和菓子のコラボレーション。物だけではない。人と人との融合が大事。始めるからには継続が大事。「毎月第三土曜日は珈琲茶会の日」と設定。お客さんの目の前でコーヒーを作る人、和菓子を作る人が同時進行で創作を楽しんでもらうことになった。始まって何ヶ月も満席が続いた。世評では「コーヒー一杯、弐千円もする」との噂が立った。それでも満席は続いた。夢中でコーヒーを淹れていると組み立て式の椅子が歓喜の音を発した。自分の住む街にはとてつもなく厚い喫茶文化の層があるのだろう。そしてこの「立礼式珈琲茶会」はその表層に漂っているのか、それとも喫茶の全く新しい価値を見いだそうとしているのか?
1999年8月。 城東地区に成田専蔵珈琲店がオープン。喫茶と豆販売の約20坪の珈琲店。コーヒー講座も可能なスペースも確保した。ネルドリップ抽出の大きな看板を掲げ、いかにも美味しさを強調してみたがオープンの1年間は散々な営業成績だった。コーヒーを「売る」ことの難しさは知っているつもりだったが、きれいな箱(店)とやる気だけでは到底、人は寄ってこない。人は楽しむためにコーヒーを飲む、人は癒されるためにコーヒーを飲む。人は繊細な心の襞に染み込む琥珀水が欲しいのだ。売る側の押しつけは通じない。コーヒーの持てる者が本気でその輝きを発した時にこそ珈琲店として成立するのだろう。少しずつ客足が増え始めたとき、この店を「老舗になった」と言われるまで維持して行きたいと本気で思った。
※掲載している写真・資料は<オール・アバウト・コーヒー><アロマ・オブ・コーヒー><la aventura del Cafe>等より抜粋
Copyright (C) 2008 HIROSAKI COFFEE SCHOOL All Rights Reserved.